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歴史が証明する、北方4島は日本固有の領土

(独立行政法人 北方領土問題対策協会HP より)

松前藩の千島統治
1.松前藩の記録

千島列島には、もともと、アイヌと呼ばれる人々が住んでいました。江戸時代、北海道唯一の藩として隆盛を誇った松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。

2.正保御国絵図

1644年(正保元年)、幕府は、諸藩から提出させた地図に基づいて、日本の全領土を収めた「正保御国絵図」を作りました。この時、松前藩が幕府に献上した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が、その名を付して描かれています。

3.松前藩の幕府への上申書

また、1715年(正徳5年)、松前藩主は、幕府への上申書の中で「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩領で自分が統治している。これらの地域には、アイヌ人がそれぞれ住み酋長がいるが総支配は松前藩が行っている。」と報告しています。
松前藩は、はじめは厚岸(あっけし)を中心にして交易を行い、キリタップや根室のノツカマップへと交易の場所を広げていきました。1754年(宝暦4年)には、国後島に「場所」を開き、択捉島、得撫(うるっぷ)島にまで及んで交易を行っていました。

ロシアの南進
1.ロシアの進出

ロシアは、16世紀から18世紀にかけて、国の勢いを伸ばそうと図り、はじめはウラル山脈を越えてシベリアに進出し、南方をめざしましたが、清国に妨げられたため、目を東に転じました。当時シベリアは毛皮の産地でしたので、これを求めてさかんに東へ進出するようになったのです。

2.フリース船長の記録

1643年(寛永20年)、インドネシアのジャカルタ駐在のオランダ総督が派遣したマルチン・ド・フリース船長が得撫島に上陸しました。このときのフリース船長の航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパに紹介され、択捉島はスターテンランド(国家島の意)、得撫島はカンパニースランド(会社島の意)と命名されました。
しかし、このとき作成された地図では、千島列島の一部が示されたにすぎず、また、カンパニースランドをアメリカ大陸の一部であると誤認するような有様でした。

3.ロシアの千島探検

ロシアが初めて千島列島を探検したのは、1711年のこととされています。コサックの反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の占守(しゅむしゅ)島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服し、翌年には、幌筵(ぱらむしる)島も征服しました。また、1713年には温祢古丹(おんねこたん)島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国しました。
また、ピョートル大帝(在位1682-1725)は東方に関心を持ち、その死の直前に海軍大佐ベーリングに探検を命じました。これを受けて探検隊が組織され、シベリアやカムチャツカ、アメリカ大陸等へ派遣されました。1738年から1742年にかけて日本近海を調査したシュパンベルグ探検隊は、本州にまで到達しましたが、濃霧のため、千島列島の正確な調査をすることはできませんでした。

4.江戸幕府の千島調査

幕府が初めて調査隊を派遣したのは、1785年(天明5年)のこととされています。工藤平助がロシアの情報をまとめた「赤蝦夷風説考」を幕府に提出し、これに興味を持った老中田沼意次が調査隊を派遣しました。1786年(天明6年)の調査隊には最上徳内らも加わり、このとき徳内が書いた「蝦夷草子」には、徳内らが国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査したこと、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したことなどが記されています。

5.ラクスマンの来航

1792年(寛政4年)、エカテリナ2世の命を受けたロシア人、アダム・ラクスマンが、カムチャツカに漂着した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港し、ロシア皇帝の国書をもって通商を求めてきました。これに対して、幕府の老中松平定信は、鎖国という国法を変えることはできないとして、松前藩を通して次のように回答しました。
○ ロシアの国書は受けとれない。
○ 江戸への来航は許可できない。
○ 漂流民の送還については感謝する。
○ 通商の申し込みは長崎で行う。
このように、ラクスマンは目的を達成できませんでしたが、日本の様子や幕府の外国に対する方針などが、ロシア本国へ伝えられました。

千島の開拓
1.江戸幕府の巡察隊の派遣

ラクスマンの来航などロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。

2.漁場・航路の開拓

翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩と津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。

国境の画定
1.千島をめぐる争い

ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められるにおよび、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。
1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太や択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。
これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。
ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走と斡旋によって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。

2.日ロ国境の確定

1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年(嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。1855年(安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。
この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。

樺太千島交換
1.樺太での紛争

明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。
樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。

2.千島樺太交換条約の締結

このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。 この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

3.得撫島から北の島々の開発

その後、内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫(うるっぷ)島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。
このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。そして、占守(しゅむしゅ)島、捨子古丹(しゃすこたん)島、幌筵(ぱらむしる)島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。
しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。

4.日露講和条約(ポーツマス講和条約)の調印

日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。

ソ連の不法占拠
1.日ソ中立条約の破棄

1941年(昭和16年)、日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を始めました。緒戦こそ日本優勢で戦いが進められましたが、しだいに日本の敗戦の色が濃くなってきました。
1945年(昭和20年)4月5日、ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に対し、1941年(昭和16年)4月25日に日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきました。
そして、同年8月8日にモロトフ外相は、クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告しました。佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に到着していませんでした。そのため、日本政府はソ連の宣戦布告をすぐに知ることができませんでした。

2.ソ連軍の満州・樺太侵攻

宣戦布告がまだ日本政府に達していない8月9日未明、ワシレフスキー将軍の率いる160万のソ連極東軍は、ソ連と満州の国境、モンゴル、ウラジオストク、ハバロフスクの3方面から総攻撃を開始しました。これは、「日ソ中立条約」の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした。
また、樺太では、バーツロフ大将の指揮する約35,000人が、8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため、約20,000人の日本軍と戦闘になりました。
8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏しました。

3.ソ連軍の千島侵攻

8月16日にグネチコ将軍の指揮するソ連軍がカムチャツカ方面から行動を開始し、8月18日には占守(しゅむしゅ)島に上陸、約25,000人の日本守備隊と交戦しました。しかし、日本軍は北部方面軍司令部の命令により交戦を中止し、8月23日に日ソ両軍現地停戦協定を締結し、武器をソ連軍に引き渡しました。
その後も、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫(うるっぷ)島の占領を完了しました。

4.ソ連軍の北方領土占領

また、ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までにことごとく占領しました。
なお、9月2日には、東京湾上の戦艦「ミズーリ」甲板で、ソ連代表も参加して降伏文書の調印式が行われました。
翌1946年(昭和21年)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入してしまいました。
島で生活をしていた人々の中には、北海道本島との連絡が途絶えてしまったため不安にかられ、危険をおかして脱出した人もいました。住み慣れた故郷を捨てきれず島に残った人々も、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて、強制的に日本本土に引き揚げさせられました。

日ソ国交の回復
1.サンフランシスコ平和条約

1951年(昭和26年)9月4日、ソ連を含む52か国が参加してサンフランシスコ講和会議が開催されました。そして、9月8日に、日本と、ソ連等を除く48か国との間で「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」が署名され、翌1952年(昭和27年)4月28日に発効されました。これにより日本は主権を回復し、国際社会へ復帰することとなりました。
同条約第2条(C)では、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と規定されています。
このサンフランシスコ講和会議において、日本の吉田全権は、歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しました。また、米国のダレス全権は、ポツダム降伏条件が日本及び連合国全体を拘束する唯一の講和条約であること、したがって、いくつかの連合国の間には私的了解がありましたが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されないことを表明しました。

2.日ソ国交の回復

「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」への署名を拒否したソ連と個別に平和条約を結ぶため、1955年(昭和30年)6月からロンドンにおいて、日ソ国交調整交渉が日本の松本全権とソ連のマリク全権との間で行われ、翌1956年(昭和31年)3月までに23回の会談が行われました。しかし、領土問題以外の交渉ではかなりの進展をみましたが、領土問題では、ソ連は、歯舞、色丹について返還の意向を示したものの、それ以上は譲らず無期限の休会となりました。
連側全権のシェピーロフ外相との間で第2次交渉が行われましたが、またも北方領土問題で行き詰まりました。同年9月7日、米国政府は、日ソ交渉に対する米国覚書の中で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。」と日本の立場を支持しました。
日本政府はこれまでの交渉の経過に鑑み、領土問題について意見の一致をみることは困難であると判断し、鳩山首相は、同年9月11日付けで「この際領土問題に関する交渉は後日継続して行うことを条件として、両国間の戦争状態終了、大使館の相互設置、抑留者の即時送還、漁業条約の発効、日本国の国際連合加盟に対するソ連邦の支持の5点について、あらかじめソ連邦の同意が得られれば両国間の国交正常化の実現のため交渉に入る用意がある」との主旨の書簡をブルガーニン議長に送り、これに対して、ブルガーニン議長は「この際平和条約を締結することなく日ソ関係の正常化に関する交渉をモスクワにおいて再開する用意がある」との書簡を同年9月13日付けで送りました。
この往復書簡の後、同年9月29日の「松本・グロムイコ書簡」によって、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続されることが合意成立しました。これを受けて、戦争状態の終結と国交回復を図るための交渉に切り替えられ、同年10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名(同年12月12日発効)され、日ソ間に国交が回復しました。
この共同宣言第9項では、「両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定されています。

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